シン・ウルトラマン感想

じき一年くらい更新していないことになるのでたまには何か書こうかなと思います。
とはいえスマホからだと編集しづらい…見え方おかしいかもですがご容赦くださいね。

私事ですが子どもが生まれてからというものやはり時間を取るのが難しく…ってそんなこと書くための場所じゃないつもりなので。そういう愚痴はTwitterでやるとして…

どうにかこうにか見た映画がいくつかあるので簡単に感想でも書こうかなと。ひとまず今回はシンウルトラマンを。

シン・ウルトラマン

公開当時話題になった、ウルトラマンを再解釈して映画化…という作品ですね。

ウルトラマンたちから見れば人間とは、人間から見た蟻にも満たないような、小さい存在。気にかけないし滅んだところで何の感慨もなく、ゆえに滅ぼすにも特に心理的なブレーキはない。けれどそんな小さな小さな存在にも興味を持ち理解しようとし、そして共に生きようとしたウルトラマン。その心がとても嬉しくて、鑑賞後はとても温かい気持ちになったのをよく覚えています。

人間であること、地球に生きていること、そういう宇宙から見たときの人間のあり方を思う作品だったなと思います。スケールの大きい感想になっていますが、本当にそのスケール感になるような、ゆったりと地球全体を抱擁されているかのような感覚がありました。

もっともっとウルトラマンの行動原理を知りたくてパンフレットを久しぶりに買いました。

ウルトラマン以外にも魅力的なキャラクターがたくさんでしたね。メフィラスはネット上でも話題になりましたし、個人的には滝くんに共感できました。じきに地球が滅ぶとわかったらとても真面目に仕事なんでできないですよね。それでも真の意味では逃げずに仕事場へやって来て、無理難題に立ち向かう彼はとてもかっこよかったです。あとは竹野内豊さん!名前がない役どころでしたが、あの、何か企みがあることはわかるがそれがわざとらしくならない演技、あの人ほどうまくできる人っているんでしょうか。明らかに何か秘めた目的があるとわかるのにそれが自然であるように見えて、シン・ゴジラから続けてのキャスティングも納得でした。

主題歌は米津玄師ということでこちらもかなり話題でした。実際に映画館で物語にどっぷり浸かって聴く彼の歌はとても染み入るものがあり、エンドロールが終わるまでしっかりと余韻に浸れました。

キャラクターも展開も演技も音楽も良くてとてもいい体験でした。せっかく時間を作って行くのでこういう気持ちになれるのは実にありがたいですね。次の映画体験もこういうものであってほしいです。

映画『モンスターハンター』の思い出

見てから間が空いてしまいましたが、見てきましたので感想をしたためておきます。

 

満を持しての実写化

この見出しがしっくり来るような期待された題材だったと思います。
原作は社会現象にすらなったゲームタイトル。主演は同じくゲーム実写映画『バイオハザード』シリーズで功績のあるミラジョボビッチ。
CG映像でモンスターがどうスクリーンに描かれるのか、圧倒的な力を持つ彼らに人間がどう立ち向かうのか…そう期待した人も多かったと思います。

 

予告画像の違和感

期待が大きすぎると現実との落差に人は落ち込むもの。この映画も原作の評判が良いだけにそういった苦境に立たされました。
まずは現在の制作の様子として公開された1枚の画像。誰もがこう思ったでしょう。「大剣にしては小さくない?」と…。
どう見てもゲーム中なら片手剣のサイズ。でも片手剣であれば盾を持っているはずだけどそれは見えないし、双剣だとしたら一本足りない。ということはやはりこれは大剣なのか…。
この時点ですでにやや諦めムードが漂い始めていました。

 

いよいよ迎えた公開

一発目のビジュアル面ですでにガッカリ感漂うことになってしまった本作もついに日本公開を迎えます。
私は公開3日目に見に行きましたが、上映スケジュールは限られていました。それもそのはず、同時期に公開された『エヴァンゲリオン』の完結版のほうが圧倒的な人気で、多くのスクリーンがそちらのために使われている状況でした。
(ものすごい余談ですが、エヴァ人気がすごすぎて売店が長蛇の列になっており、朝ご飯を買おうと思っていた私は上映終了まで空腹で見ることを余儀なくされたのでした…)

知名度のわりに小さなシアターに入り着席。この時点でお客さんは一桁。
実は体調が思わしくなく字幕で見るのはつらいかもと思い吹替を見に行ったので、そのせいでお客さんが少なかったのもあると思いますが…いや、思いたいですが…字幕版だともう少し盛況だったりしたのでしょうか?
いずれにせよ、封切3日目=日曜日、朝早いとはいえこの異常な静けさは正直予想外でした…。空いててよかったですけどね。

 

モンスターこわい

大雑把なまとめとしては、「モンスターの恐ろしさをこれでもかと描いたモンスターパニック映画だった」というところになりましょうか。
この「モンスターパニック映画」というところが重要で、「ハンティング映画」ではないんです。
原作をプレイしたことがある人はその醍醐味として「強大なモンスターに立ち向かい制したときの達成感」をまず挙げることでしょう。そういったものは一切ありません
あるのはひたすらに「モンスター強い」「モンスター怖い」「実写にするとこんなに恐ろしいのか」という気持ち。
モンスターを狩るかっこいいハンターはいませんし、ハンターを苦しめた果てに狩られるいい意味でのやられ役のモンスターはいません。

見に行く人はゲームをプレイしたことがある人がほとんどでしょう。ハンターたちは、モンスターに苦戦しながらも様々な道具や環境を駆使し、己の腕前を信じ、時には運も味方につけ、モンスターを制する様をこの映画に期待していたと思います。
けれどそんな描写があったかと聞かれたら、「ない」と答えたほうがこれから見ようとしている人のためだと私は思います。

 

あえて使われなかった?原作の世界観

これだけはどうしても書かないといけません。原作であるゲームの『モンスターハンター』は、人とモンスターが共存している世界なのです。
ゲーム中の討伐依頼を見ても、殺伐とした雰囲気はありません。それもそのはず、そういった印象を抱かせる言葉を一切使用していないのです。「困っているから助けて」「あいつらをこらしめて」など小さな子どもが発しても眉をひそめたくならない絶妙な言葉使いです。

そういったゲーム制作者たちの願いにより、原作の世界観では「人とモンスターがお互いのテリトリーを守りつつうまく共存している」と私は考えています。
人里に近付きすぎたモンスターは狩る。生活のため必要な分だけ狩る。モンスターの生息地にうっかり入ってしまった。モンスターの周期的なものなどで仕方なく人里に近付いてしまった。
そういった経緯でハンターが狩りに出かけることがほとんどなのです。

なのでモンスターが積極的に人を攻撃し命を奪っていく様は、ゲーム原作の世界観ではあり得ない様子だと感じました。
好戦的なモンスターもいるので攻撃そのものは(特にディアブロスは)問題ないのかもしれませんが、死なせてしまうのはせめてもう少しぼかして描写してほしかったな…と、非常に残念に思います。

あと殺伐としていない世界観という点で見ると、ハンターとアルテミス(ミラジョボビッチ)の交流も、いぶかしみお互いを攻撃し合うところから始まるのが少々残念ではありました。
ゲーム原作の世界では、言葉が通じなくても、モンスターに襲われ困っているならば手を差し伸べる人ばかりだと思うのですよね…。

たしかに何の下地もなく考えれば、異世界から来た言葉の通じない、見知らぬ武器を持った人物ですから、まずは脅威と考え警戒するのが普通なのかもしれません。けれどそこは原作のある強みを生かしてほしかった。

 

モンスターも下地なしの独自解釈

下地ゼロで作られたであろう本作、モンスターの描写もかなり独特でした。

ネルスキュラはあまりのおぞましさにどんな様子だったか書くのもはばかられますが、群れで襲ってきたり卵を産み付けたりといった解釈は私には一切なかったので新鮮でした。
ネルスキュラをモンスターハンターのモンスターではなく実際の蜘蛛の一種として見なければ出てこないアイディアではないかなと思います。
なので映画制作陣は非常にフラットに、予備知識を入れ過ぎずに作ったような印象を受けました。
まぁ実際にこんな蜘蛛がいるわけないので、人間を恐怖に陥れるヤベー蜘蛛ってこんなんだろう、という個人的趣味が大いに入り込んでいる気もしますがね。

リオレウスは格段に大きい。大きすぎる。体躯の割に翼がけっこう薄かったり主人公に対してだけ炎を吐く予備動作がかなり長かったりとツッコミどころ満載。いや後者は演出上仕方ないとも言えますが…それにしても軍の兵器をいくつも撃墜する巨大モンスターにほぼ生身のアルテミスが勝てる理由って何なんだろう…。

ディアブロス亜種は巨大さに好戦的な性格、異常なスピード、絶望感など、比較的原作イメージ通りでした…。

 

まとめ

もう少し原作の強みを生かして省ける部分があったのでは?その分、後半の協力してモンスターに立ち向かうところを厚くしてもよかったのでは?
…というのが全体的な感想まとめですね。
最後のみんなで立ち向かうところが突貫工事でくっつけたように感じられる出来でした。

B級映画を見たときの盛り上がり方なら楽しめると思いますが期待して見た人は私を含めお気の毒様でしたね。

やっぱりモンスターハンターはゲームが最高ですね。

 

 

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正当進化したデジモン:デジモン映画ラスエボ感想

こんにちは、うたげです。
今日はせっかく映画を久々に映画館で見たので、感想を書いてみよう。
作品はブログタイトルの通り、デジモン。正式には『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』。通称、ラスエボ
かつてのテレビアニメリアルタイム世代の目にはどう映ったかな?

デジモンシリーズ全て追っているわけじゃない人間が思ったことを書き散らしているだけなので、熱心なファンの方の肌には合わない部分が多いと思う。
何か嫌なものを感じたら読むのをやめるのをおすすめします。要するに「私のデジモン観」なので。

 

デジモンって?

このブログを訪ねてくれる人は同年代が多いのでは、というネットを通した偏った見方を私も持っているので、おそらくこのコンテンツについてはあまり解説の必要がないんじゃないかなと思う。
一応、デジモンとは何ぞや、ということについて軽く触れておくけれど、実は私もそう詳しくないので、まぁこのくらいの思い入れでも見れる作品なんだな、と思ってもらえれば幸い。
”映画館まで交通費と時間をかけて出向いてちょっと豪勢な昼食一回分くらいのお金を払って二時間程拘束される遊び”に対してハードルが少しでも下がればな、という願いもある。

さて、私の記憶では、デジモンはポケモンの少しあとに発売されたゲームだ。
ポケモンは言わずもがな。モンスターを収集して・育てて・戦わせる、という、虫取り遊びに通じる普遍的な要素で少年少女の心をガッチリ掴み、今でも拡張を続けている、もはやそれ自体モンスターとも呼べる、超巨大コンテンツだ。

そうしてポケモンが大流行する中、少し似た要素のゲームが発売された。それがデジモンだ。
モンスターを育てて戦わせるのも、モンスターが進化するのも同じだ。ポケモンにすっかりはまっていた当時小学生の私はデジモンのゲームは買わなかった。小学生ゆえに買えるゲームは限られていたし、ゲームボーイとかメジャーなハードでは出なかった覚えがある……思えばこの頃からゲームハード争いにしっかり巻き込まれていたんだな。
だからデジモンのゲームの細部は正直よく知らないのだけれど、ポケモンがその世界を旅するアドベンチャー感があったのに対し、デジモンはそういうのがあまりなかったように思う。画面を通してモンスターのお世話をして戦わせて、という感じだったような記憶がある。当時、現実世界の草むらからピカチュウが飛び出して来ないかな~と好きな世界が現実へやって来ることを夢見ていた小学生には、そのデジモンのこざっぱりとした、距離感のある世界観はかなりドライに映ったんだと思う。

デジモンのゲームに対する思い入れはこんなものだけれど、ある日大変なことが起こった。デジモンのテレビアニメが始まったのだ。その頃の小学生の情報源なんてコロコロコミックか同級生との会話くらいしかなかったので、コロコロの宣伝に乗せられて、当然初回から見る。で、結果、すっかりデジモンにハマる。
当然あれから二十年くらい経った2020年に続編映画が公開されるくらいなので、テレビアニメシリーズの出来はかなり良かったんだと思う。小学生も夢中で見ていたし、今も名作として挙げる人もいるくらいだから、間違いない。

デジモンアニメといえば劇場版第一弾を思い出す人が多いと思うけど、私はテレビアニメシリーズが好きだった。
もう初回からポケモンとは様子がまるで違うんだよね。ポケモンとの対比ばっかりでポケモンにもデジモンにも申し訳ないし、これさっきも言ったけど、ポケモンはその世界に生きる一人として私たちはその世界観の中に入っていくの。アニメ主人公のサトシだってポケモン世界の中で生まれて生活している。
それに対してデジモンは、デジタルワールドって異世界でのお話なんだよね。選ばれし子どもとしてデジタルワールドへやってきた太一たちは、元いた世界とは違う世界に最初すごく戸惑う。そこで初めて会った仲間と一緒に旅をしないといけないし、何でも知っていて守ってくれる大人もいないし、デジモンなんていう生き物とも協力しないといけないし。
ポケモンのひたすらに明るくて懐の広い世界観に比べて、デジモンはほろ苦い始まり方。遥か昔からいわゆる異世界ものってあると思うけど、今思えばその王道だったんだよね。かつては漂流して流れ着いた島での冒険、今や異世界転生、デジモンはデジタルワールドへ呼び寄せられる形。たまたまその場に居合わせただけという人たちとぶつかったり手を取り合ったりして困難に立ち向かう、というお話の流れとしては異世界転生ものは少し外れている気がするけれど、とにかくデジモンは王道中の王道の設定だったんだ。

で、始まりがほろ苦ければ、当然終わりもほろ苦い。太一たちは元いた世界へ帰らなくちゃいけない。でもデジタルワールドで数々の経験をして、デジタルワールドの住人と芽生えた友情もある。その友情はお互いの胸にしまっておいて、別々の世界で生きないといけない。涙ながらに別れを惜しむ太一たちとデジモンたち。
最終回の持つ意味はたぶん当時の私にはうまく咀嚼できなかったと思うけど、それでも記憶にあの場面が残っているので、何か心に響くものがあったんだろうな。列車に乗って現実世界へ戻るとき、ミミちゃんのウェスタンハットが風で巻き上げられるシーンがあったような気がする。……完全に私の妄想で、思い出を捏造していたらどうしよう。。

 

大人になったかつての主人公

細部は覚えていないけど、最終回のシーンはなんとなく覚えているし、せっかくだから見てみるか。
そんな軽い気持ちで見に行ったラスエボ
何の予備知識も入れずに行ったのでびっくりの連続だった。

まずデジタルワールドと現実世界が気軽に行ったり来たりできるようになってて、これは一番びっくりした。
だってこれができるならテレビアニメシリーズ最終回のあの涙は何だったんだ?って話じゃん!でもそこは受け入れる。だって私ももう大人だし、一生会えないよりご都合主義と言われようと会いたい人と会いたいときに会えるほうがいい。
あとやっぱりデジモンシリーズにそこまでお熱だったわけじゃないので、私が覚えていない知らないだけで、実はもともと健在だった設定とかもあるんだろうな。今回の映画で登場するまで、太一たち無印シリーズの、次のシリーズがあったことも忘れてたし。

物語には始まりが必要なわけで、この映画の起承転結でいう「起」は、太一とヤマトが困難に直面することだ。熱血で単純な太一と、クールなヤマト。性格は少年のときからあまり変わっていなさそう。この正反対がゆえに良いコンビだった二人が、まさかホルモン屋でビールを飲むなんて。正直かなりびっくりした。
だって私の記憶の中では、二人はヒーローだったわけ。アグモンとガブモンは主人公補正でかなり強い進化をして、それでデジタルワールドでの危機を何度もくぐり抜けて…。その二人が、小さな七輪を挟んで、一杯380円であろう生中をあおっている。このシーンだけで想像力豊かでデジモンにかなりの思い出補正がかかっている私には十分すぎる情報量。
それなのに太一ときたら、おそらく大学四年生の夏だというのに就活をまっっったくしていない。それどころか卒論も手をつけてすらいない。お前はいつぞやの私か!と記憶のかなり奥底にしまいたい部分を抉られて、急に想定外の深いダメージを受けてうまく息ができないでいるところにトドメのヤマト。ヤマトのほうは大学院に進学する予定だけど、それもモラトリアム延長のためといったところ。典型的なダメ大学生になったかつてのデジタルワールドの英雄二人。つらい。つらすぎる。これ、大人なら誰が見てもそれなりにダメージ受けるんじゃないだろうか…。見る側の共感を得るには十分すぎて余りある設定には容赦がなくて、びっくり。

でも他のメンバーはわりとうまく人生を送っている。私はここがミソと思う。
太一とヤマトは人生にかなりつまづいてる。たぶんこのうまくいかない現実にぶつかるっていうのが、大人になり始めるってことなんだろうな、と解釈してる。
ミミちゃんたちみたいに自分の夢を叶えて突き進んでいる人は、現実との摩擦が少ない。でも太一とヤマトは、自分が何をしたいのかもよくわからず、だから現実との摩擦がものすごく大きい。何をすべきかなんてわからないのに時間は無情に選択を迫る。そこでこの二人は大人の世界へ片足を突っ込んでしまうんだろう。だからパートナー関係解消のタイムリミットも、仲間たちのうちで二人だけに訪れたんだと私は思っている。

持論じゃないけど、少年時代に活躍をした人は他の分野でもひとかどの成功を収めるものと思ってたのだけど、選ばれし子どもはそうじゃないのね。デジタルワールドでの冒険でしか輝けないならなんとも残酷な選定だな…。神童も二十歳過ぎれば……ってやつみたい。デジタルワールドでの活躍が特に目覚ましかった二人が一番人生につまづくなんて、リアルすぎませんか制作陣さん。

 

真っ直ぐなストーリー

ここまで太一とヤマトがどういう青年に成長していてそれがいかに見る者のハートに大打撃を与えるかを書いてきたけども、ストーリー自体はとっても王道。今時珍しすぎて逆に新鮮さを覚えるくらいにど真ん中ストレート。
あんまり書いちゃうとこれから見る人の感動を削いじゃうかもしれないので詳細は触れないけど、変に狙って捻りまくって意味がわかりにくい、ということもないので、安心して見られる作品。

太一とヤマトのための物語と言っても過言でなく、清々しいくらいに他のメンバーは見せ場がないけれど、おかげでメッセージはかなりシンプルに投げ込まれてくる。

ぶっちゃけ現実なんて本当に思うようにいかない。少年時代の冒険が輝いていればいるだけ、目の前にある”将来”ってものがくすんで見える、というよりまったく見えない。見えないから不安で仕方ない。進みたくない、輝く思い出にひたっていたい。それでも、生きている限り前に進んでいかなきゃいけないんだ。

そんな恥ずかしくなるくらいに青臭い太一たちのメッセージ、涙腺が年々緩くなるアラサーには本当にいけない。こんなこと伝えられて泣かないわけがなかろう!!
映画が終わって明るくなるとき、急いでマスクをつけてその流れで目元の涙を拭って、できるだけ下を向きながら映画館を出たけど、周りからもすすり泣く声が聞こえたのでみんなみんな太一たちのメッセージを受け取ったんだろうな。

ちなみに私が見ていないだけで他のメンバーについての物語も色々あるみたい。動画配信とか。このあたり映画一本で完結しないのは、今のプロモーション手法としては常とうなのだろうけど、全部見る!!って意気込みがないといけないのは少し負担だよね。
でも私みたいに関連作品をあまり知らなくても十分に楽しめる映画なのは間違いない。現に映画だけでボロ泣きして、色々記憶が蘇って、こうして今ブログ書いてる人間がいるわけだし。

 

思い出をきれいにまとめて

デジモン映画の復活に、ネットでは賛否両論あったのを知ってるからか、より強くこう思う。

好きだったコンテンツを正当進化させてくれてありがとう、と。

しつこいけどもデジモンとポケモンは、似ているようでいて、実はまったく違う。デジモンはあくまでデジタルワールドという別世界での話で、現実世界の主人公たちはしっかり年を取っているし、世代交代もする。サトシはずっと子どもたちの代理冒険者だけど、太一たちは今やアラサーになった私たちと同じで、大人になってしまったのだ。
だからこそ、子ども向けのコンテンツなのかそれとも懐古主義の大人に向けたものなのかがハッキリせず、賛否両論を巻き起こしてしまったんだろうなぁ、と思うけど…。

大人向けにはこの映画でしっかり太一たちの物語を一旦締めてあげて、子ども向けにはまた新しいテレビアニメを始めればいいじゃない。
かつて選ばれし子どもだった者たちに向けた、区切りの作品になったと思う。一区切りつけられる正当進化だったと私は思う。ちゃんと終わらせてくれたから、しっかり前に進みたいものだ。

 

 

 

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世界は音楽に満ちている。:映画『蜜蜂と遠雷』感想

読書記録『古代ギリシャのリアル』

世界は音楽に満ちている。:映画『蜜蜂と遠雷』感想

こんばんは、うたげです。
今日は映画『蜜蜂と遠雷』を見てきた感想です!

 

『蜜蜂と遠雷』感想

まずは映画の感想を。

冒頭、雨粒が地面に当たり弾ける映像。原作読んだからわかる…雨粒が何かを叩く音、これは亜夜が音楽の神様に愛されていてどこにでも音楽はあると全身で感じていることを表しているんだわ…

突如として暗転、無音。
音楽を題材にした映画だから、無音の時間が生きる…これは終盤にも出てきそうな演出だな…
(と思いながら見ていたら終盤でほんとに同じ展開があった)

一次予選に向かう亜夜に容赦なく投げかけられる周囲の言葉。ここで亜夜がどんな人かを説明しているのね。でもこの段階では言葉だけ。亜夜はかつて天才少女だったが今は相当長いブランクがあるということがここでわかるようになっている。

そんな亜夜が一次予選の演奏を始めようとしたところで場面転換。次はもう通過者発表も終わった場面に切り替わってて、かなりサクサク進めてる。一次予選はかなりあっさり終了、まぁたしかに映画的には『春と修羅』の二次予選や、亜夜とマサルに葛藤のある本選に焦点を当てたいよね。原作ではここは各コンテスタントがどういう経歴で、どんな気持ちでコンクールに臨むかを説明しているけど、映画では映像で説明しないといけないものね。
でも一次予選の結果発表後の場面で、プレスの人たちの会話を通してマサルやジェニファ・チャン、明石の紹介をするのはスムーズでわかりやすかったと思う。女の子にサインをねだられるマサル、そこに割り込み調律師への不満を漏らすジェニファ・チャン(その不満はファンサより優先度高いの?)。二人のキャラクターわかりやすくていいね。そして撮影のためコンクールに来ている雅美ことブルゾンちえみが追う明石。
え、ブルゾンちえみ?雅美の役なの?出るのは知ってたけどまさか雅美とは。この役どころだと明石と一緒に出て明石に解説を促す役回り…?てことはかなり後半まで出てくる…?チョイ役と思ってたのにけっこう出そうだよブルゾンちえみ!

三枝子登場!斉藤由貴!!原作読んだときは勝手にややふっくらしたきつそうな性格の見た目を想像してたんだけど、この三枝子は明らかに魔性の女。色気がすごい。流し目されたら男だったら何でもしてしまいそう。ナサニエルが入れあげるのもわかる…わかるよナサニエル…。この三枝子はかなりの男を惑わしてきたと思うね。映画ではナサニエルと昔は夫婦だったことなんて微塵も出てこないし、なんならマーくんの恋愛模様も一切出てこないけどね。たしかにナサニエルと三枝子、亜夜とマサルの恋愛を絡めると全然別方向の話になっちゃいそう。ピアノコンクールはただの再会の場になっちゃうもんね。現実と同じく真剣勝負の場に恋愛感情は邪魔なのよね、きっと。

序盤は明石にもやや焦点が当たる。出場制限ぎりぎりの年齢、音大生ではなくサラリーマン、家に帰ればパパという明らかに周囲から浮いた属性の明石。取材のためブルゾンちえみがインタビューすると、「生活者のための音楽」は負けないことを証明したいのだ、と語る。
実は明石は岩手に住んでいる設定になっている。岩手といえばご存知、宮沢賢治。『春と修羅』の著者。つまりは映画では明石は、本当に普段の生活の中で得たものを『春と修羅』のカデンツァにこめた、ということになる。これはなかなかよい。原作では、新曲の解釈に四苦八苦する描写として、岩手への弾丸旅行をしたことや賢治の著作を読み漁ったことが描かれていたけれど、映画の明石は賢治が吸っていた土地の空気を吸って生活している。だからその明石が、普段の空気をカデンツァに落とし込めばそれこそが「生活者の音楽」だ、というメッセージがかなりわかりやすく発信されていて。だからこそ、その『春と修羅』で選考された二次予選で明石が落ちてしまったこと、それはインタビューでも明石が言っていたように「生活者の音楽」の敗北だ、ということになるのかな。
でも、終盤で亜夜に言ってたように、世界中に様々な音楽があるので、例えコンクールでは負けてしまっても「生活者の音楽」は続けていいし、続くべきなんだよ、明石!そのメッセージが明石の口から語られたのはアツい展開だった。

さて、明石の二次予選の結果発表の前に、亜夜にもスポットライトが当たる。
一次予選の時点では亜夜はかつての輝きを失っているという三枝子の談。でもそこに現れる風間塵!
亜夜の前の出番の彼が舞台裏に戻ってきたとき、足元がモカシンと舞台にはあり得ない服装であることにびっくりした亜夜が顔を上げて目を合わせたのが二人の出会い。
その後、二次予選の明石の「あめゆじゅ~」を聴いてどうしてもピアノが弾きたくなった亜夜。ここ、原作ではマサルのカデンツァに触発されるのだけど、映画ではそれが明石のカデンツァになっているの、とてもいい。明石と亜夜の出会いをよりクッキリさせていると思うし、明石の演奏に刺激される描写があることでその後の亜夜の号泣場面にも説得力が出てくるね。ピアノを弾きたいのに練習室が使えない亜夜に、明石が知り合いを紹介。何らかの工房を持っていて何らかを作っている明石の知り合い。何者?何作ってるの?この明石の知り合いについては特に言及なし。原作では、亜夜の付き添いで来た奏(亜夜の指導教授の娘)の知っているピアノ教師の家、という設定だったけど、ピアノと無縁そうな工房だし何かの職人だしで、彼が気になりすぎた…。あと工房の彼は何かをガンガン叩いて何かを作っていたけどもピアノ練習の妨げにならないのかな。そんなに物理的な距離があるのかしら。
とか思ったけど、そこに突如として現れる風間塵に何らかの工房の人への色んな疑問は吹っ飛んだ。風間塵は亜夜がピアノを弾きに行くんだろうと思ってあとを尾行してきた。なんて危ない。危なさすぎる。ストーカーじゃん!原作でも亜夜のあとを付けてきてたけど、実際に映像にするとヤバさがすごい。16歳の男の子って子どもとはいえけっこうでかいよね!夜、女の子一人のところに窓を叩かれたら、驚くなんてもんじゃない。
…けどそこは風間塵なので。ギフトなので。亜夜と月明かりのもと、連弾。ここの演奏とってもよかったな。月の光からどんどん曲が移り変わっていく。編曲も素晴らしいし、そのいかにもその場の流れで曲が移り変わっていますよ、という空気を醸し出せる俳優陣もすごい。ここの演出は大変だったろうなと思う。最後の締めも息ぴったりで、近年の映画の中ではかなりいい演奏シーンだった。

でも、二人でピアノを弾く前後の会話は、亜夜がぎこちないのがまたいい。初めは風間塵が突然現れたことに対する驚きや警戒心もあったと思うけど、それでも人と距離を置いている感じ。
この映画の中の亜夜は、基本的に感情をあまり外に出さない。無難にやり過ごすための薄っぺらい笑顔が張り付いてしまっているような感じ。マーくんと再会したときだって、破顔という表現で笑いこそすれ、すぐにいつもの張り付けたような笑顔に戻ってしまう。だって小さい頃の約束を守ってピアノをずっと続けてきて、ピアノが大好きだと臆面もなく言えるマサルに対し、亜夜は七年間もピアノから離れ、ピアノが本当に好きなのか自信がない。昔は自分のあとをついてくるばかりだった小さなお友達がいつの間にか自分よりずっと先を堂々と歩いているって、亜夜にとっては自分のこれまでの道のりがどういうものだったか問い詰められているような感覚だったんじゃないかな。居心地悪くて、逃げ出したかったに違いない。
それでも二次予選を突破できたのはやっぱり風間塵のおかげ。彼との連弾がなかったら。彼が二次予選の舞台袖に戻ってきたとき上気した顔で亜夜に「楽しかったよ」と声をかけなかったら。

映画では風間塵は本当に「ギフト」役に徹底していて、人間らしい描写が少ない。音の出ない鍵盤で練習して指先に血が滲んだりする場面はあるけど、それも痛みすら気にしない程に音楽に入り込んでいる、みたいに見えなくもない。音楽の神様の使い、みたいな感じ。
彼は音楽を連れ出すことを目的にしているけど、映画ではそれは具体的に亜夜の復活を指しているんだと思う。亜夜はかつて母親と世界が音楽で満ちていることを感じた。最後、亜夜はその感覚を取り戻し、再びステージに立つ。本選の前に、亜夜とマサルの会話で、マサルの夢がコンポーザーピアニストだということも明かされる。「音楽が閉じ込められている枠を壊したい」という主旨の夢。きっとそれは風間塵の目指す、音楽を連れ出すこと、世界は音楽に満ちていると再発見することと同じことだと思う。こんな感じでテーマはけっこうわかりやすく散りばめられてる。
ちなみに亜夜が二次予選突破できたのは、風間塵が、作られた曲をホールで演奏するだけでなく世界中に音楽があるんだよってことを亜夜に教えてくれたおかげだと思う。月の光を見てドビュッシーの『月の光』を弾き始めるっていう、音楽は本来周囲にあるんだよ、ってメッセージがなかったら、亜夜は母親との連弾を思い出さなかったんじゃないかな。母親と連弾して、「あなたが世界を鳴らすのよ」って言葉を思い出したから、母親のようにすべてを包み込むカデンツァが出てきたんだと私は思う。

亜夜の本選は、もうほんとに涙なしでは見られなかった。。映像になると、幼い亜夜の心の空洞がよりリアルになってしまって、本当にダメ…あれは泣かないでいられない…。
亜夜の天才ピアノ少女時代の終わりは、こう。舞台袖に一人座る亜夜。その周囲で母の葬儀に間に合うかという心配をする大人、まだ子どもだぞと亜夜をかばう大人。亜夜本人の意思を無視して周りの大人だけで話を進めようとする、亜夜にとっては居心地の悪い空間。そんな中、いつも通り「時間です」と田久保に声をかけられステージ上のピアノへ歩いていくが…。ステージに出るもそこにいつもの音楽はなくて、ただ暗くて息苦しい黒い箱があるだけ。幼い亜夜の指はずっと膝の上にある。指揮者がいくら合図を出してもピアノの音は鳴らない。オケ奏者が怪訝そうな目、いや、ほとんど睨んでくる。そんなところから亜夜は立ち上がって逃げ出したんだ。
そのとき弾こうとしていたプロコフィエフ三番。でもあのときのことを思い出して、亜夜はリハで一度はピアノを弾くものの、ピアノをまったく響かせられない。指揮者小野寺にも、ピアノが鳴らなくなったのかとと言われ(予告編で使われてるシーン)、ついにはオケがリハを進める中で亜夜の指はまた膝の上に戻ってしまうし、さらには荷物をまとめて出場前にコンクール会場を立ち去ろうとさえする…。

でもね、ここで場面転換。地下の駐車場になぜか置かれているピアノ。雨も降る中当然そんなところにピアノは置かないから、きっとこれは暗喩。冒頭で示されたように、亜夜が世界から音楽を見つける例として使われるのは、雨音なんだよね。だから雨音を聞いて、そこに音楽があると気付くシーン。母親との回想でも雨の音を聞いてそれを音楽にして…という印象的なシーンがあるので、雨音を物語のキーにして見るとだいぶわかりやすい。
本選本番では、幼い頃の回想やリハでの様子がいいバネになっていて、それら陰鬱とした出来事を乗り越える亜夜の演奏の様子は、見ていて涙があふれた。風間塵は音楽を連れ出してくれる人を見つけた!

私は、亜夜や風間塵は、まるでシャーマンや翻訳者のようだなと思った。原作でも小野寺が言っていることだけれど。(小野寺は原作と一番違うキャラクターでちょっとびっくりだよね…)
世界中に満ちている音楽を、代弁する存在。それが亜夜たち音楽家なんじゃないかな。世界にある音楽を取り出して、解釈し、自分の言葉で語る。同じ雨だれを聞いても、亜夜と風間塵の奏でる音楽は違うし、たぶん誰一人として他の人と同じ音楽を語ることはない。それどころか一人の人間でも、昨日と今日では同じ音を聞いてもまったく違う音楽を奏でるだろう。小野寺がホフマン追悼コンサートで語ったように、音楽は泡沫の芸術。耳に届いてもそれをずっと閉じ込めておくことはできない。でも一瞬の煌めきだからこそ、永遠だ。

亜夜は本選の演奏後、舞台から世界に音楽が満ちているのを見て、それで涙したのではないかな。かつて母親と見て聴いていた世界が、あのときよりも広くなっている。昔はよく遊んでいたのにいなくなってしまった友達に再会できた喜び。もちろん演奏を終えた安堵感などもあると思うけれど、それよりも、音楽が満ちる世界をまた見つけられたからこその涙だと思う。

 

原作小説との違い

たくさんあったので抜けてるのもありそうですが、ひとまず覚えているものから。

  • 奏・オリガのキャラクターは登場なし。それぞれの役割は、
    オリガ=審査委員長 → 三枝子が審査委員長に
    奏 → たぶん明石に集約
  • 亜夜とマサルの先生が、綿貫先生→亜夜の母親に。
  • 亜夜の出番が大トリではなく四十四番。(ただこれはあまり影響ない。)
  • 三次予選なし。一次はおそらく原作通り、二次は『春と修羅』一曲、その次が本選。本選の課題は原作通りピアノコンチェルト。
  • 明石の役割が増えている。
    原作:「生活者の音楽」を示す最年長コンテスタント、仕事も家庭もあり読者に最も近い立場
    映画:原作の役割に加え、亜夜に要所要所で言葉を投げかける潤滑剤のような役割も
  • 亜夜と風間塵の連弾が、コンクール開始前→一次予選後、音大の教室→明石の知り合いの工房、にタイミングも場所も変更。
  • 本選の指揮者小野寺のキャラクターがかなりの曲者に変更。マサルの前には壁となって立ちはばかり、亜夜にとってはボイコットしたあの演奏会を思い出させるという悪役的な立ち位置に。
    他、ホフマン先生追悼演奏で、音楽とはどういうものか、彼の口から語れる。「一瞬を通じて永遠に触れている」

 

世界は音楽に満ちている

「世界は音楽に満ちている」というメッセージに重きを置いた作りだったと思います。そのために各キャラクターの役回りを大胆に改変したところもありましたが、映画の二時間に物語を収めるのならば改変は必須ですよね。それでも、コンテスタントたちの心の動きが丁寧に描かれていて、原作未読でも感動を覚える作品に仕上がっていると思います。特に亜夜は作品の要なので、原作のあの飄々とした感じがなくなり、音楽との向き合い方にもがき苦しむ役どころへ変更。一度沈んでから最後の演奏までを見せているので、彼女の成長あるいは復活物語のようです。亜夜の物語とオーバーラッピングしてくるのが明石。前半は明石の物語でもあって、彼の演奏が亜夜を刺激して亜夜の成長へうまく繋げていく構成は、わかりやすくてよかったです。原作だと各人の物語が同時並行で進んでいくので、浮き沈みがあって物語として作りやすい二人を抜き出して、映画の枠にはめるため周りに必要最低限の飾りだけ付け足した、という感じかな。役割を集約させて登場人数を削ったことで、全ての登場人物がきちんと機能していたのは関心しました。

とにもかくにもなかなか自然で納得のできる映像化でした!
原作を読んだ方にはなかなか楽しめる作品だと思います。音楽はもちろん、映像もきれいです!あまり声を荒げたりするシーンもないので疲れたとき見るのもいいんじゃないかな。私はそういう風に見たいと感じました。
でもやっぱり一番のおすすめは原作を読んでから見ることですね。逆でもいいと思いますが、原作も素晴らしいですよ。

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