ゴールデンカムイ第250話感想
こんにちは、うたげです。
ゴールデンカムイ最新話の感想です。
ネタバレ含むうえに一ファン個人の想像・妄想・曲解だらけなので苦手な方は気を付けてください。
小難しい考察はしない・できないので、気楽に読んでくれたら嬉しい。
第250話 打ち上げ花火
鯉登少尉と月島軍曹も札幌に到着。時計台の前で菊田・二階堂と落ち合う。
宇佐美は新聞記者(石川啄木)から得た情報から「次の殺人事件が起こる場所」に一人で先に向かっていた。犯人を捕まえるべく、鶴見中尉を待たずに第七師団の一行も動き出す。
札幌麦酒工場では、手を組んだ土方一派と杉元一行が三人一組に分かれ札幌娼婦連続殺人事件の犯人を待ち構えていた。
そこへ石川啄木が破り捨てた地図を復元した宇佐美も、犯人を追って現れる。娼婦に扮した門倉に声をかけてきた宇佐美。宇佐美の異常さを知る門倉は何とかして今の窮状を訴えたいが、真犯人でもないので迂闊な手段は使えず――。
一方、杉元・アシリパさん・白石組は門倉たちとは別の場所で警戒していた。彼らが警戒しているのは娼婦殺しの犯人だけではない。アシリパさんを狙っているはずの尾形も警戒していた。
土方一派と杉元一行が手を組んだことで尾形は土方さんの元へ戻れなくなった。造反してきた第七師団に戻れるはずももちろんない。そして今は他の連中とアシリパさんたちが離れる絶好の機会。尾形が狙ってこないわけがないのだ。
今やどの勢力からも孤立してしまった尾形の動機を、杉元はこう語る。金塊が手に入らないならばアシリパさんを殺してめちゃくちゃにしてやろう、というところだろう。――それはみんなを失望させたいからか、というアシリパさんの疑問は消えない。アシリパさんの頭には、樺太の流氷での尾形が思い出されていた。
さて門倉と宇佐美の再会は、門倉の願いむなしく宇佐美に顔を見られてしまう形で叶った。
門倉の悲鳴を合図に牛山が宇佐美に襲いかかる。背面から予兆なく掴みかかったはずだが宇佐美は反応し銃床を牛山の頭に叩き込んだ。牛山も宇佐美の胸倉を掴み、牛山vs宇佐美の戦闘が始まる。第七師団との戦闘が始まってしまい、犯人発見ではないがキラウシは合図の花火を打ち上げ他の仲間に応援を呼びかけた。
娼婦に扮した夏太郎に声をかけてきたのは、シルクハットを被った外国人らしい男だった。キラウシが打ち上げた花火で明るくなり、犯人と目されるマイケル・オストログの顔をしかと確認した永倉も花火を打ち上げる。
札幌麦酒工場で打ち上げられた二発の花火。それを見上げ照らし出されるのは杉元組と海賊らの班、鯉登少尉ら第七師団の面々、それにヴァシリと尾形。
「私をがっかりさせるな」
上エ地には幼少期にかけられた言葉の記憶があった。立派な軍人と称えられる父親の息子ゆえに周囲から向けられる期待の声。父親から与えられるプレッシャー。
それを思い出してか涙を流す上エ地の顔も、花火が照らし出す。
そしてもちろんこの人も。鶴見中尉もついに札幌へ到着したのだ。
まるで金塊のように人々を吸い寄せる打ち上げ花火。札幌麦酒工場でマイケル・オストログを捕まえることができるのか?上エ地はどう関わってくる?金塊争奪戦の関係者が揃い踏みで何が起こるのか?
肯定されたくて
尾形はがっかりさせたくてアシリパさんを狙う?もちろんアシリパさんの想像してるであろうように、それは違う。
尾形は否定されたくなくて、肯定されたいのだ。
何度かブログに書いているけども、尾形は常に人からの関心(≒愛情)に飢えていた。
父の関心は実子である勇作さんへ向き、母の関心は自分ではなく父にしか向いていない。
関心を向けてもらいたい。それを勝ち取るための手段が尾形にとっては狙撃だった。母は鳥を撃っても振り向いてくれなかったが、敵を撃てば第七師団の中では関心を得られるのではないか――そう思ったであろう尾形を、またしても無関心(でもないのだが彼にとってはそう映っていそう)が待ち受ける。確かに狙撃の腕はあるが、それでも花山師団長の息子という肩書のある勇作さんのほうが遥かに鶴見中尉に重宝されていたのだ。
またも関心を得られなかった尾形。だが一筋の光が彼の心に差し込む。アシリパさんだ。
尾形が鳥を撃ったことをきちんと認識し認めた。受け入れられている、存在が認められている。それこそが長年尾形が求めてきたものだった。だから彼にとってアシリパさんは、執着するに十分値する存在なのだ。
しかし尾形のねじれた精神は、こんな単純な話では終わらない。
彼は勇作さんを見て一つの道理にたどり着いたのだ。
敵をいくら殺しても鶴見中尉に重用されない尾形。敵を殺さず旗手としてあるだけで、鶴見中尉に利用価値ありと判断されるどころか兵士たちからは勝利への導き手として扱われる勇作さん。この、おこないと結果の違いが、やがて尾形に腹違いの弟を殺させる事態になる。
尾形を語るうえで外せないのが、人を殺すにはなんらか理由が必要だ、ということ。杉元は敵兵を人と思わないことで自分の精神バランスを保っていたように、尾形もなんらかの理屈づけで自分を保っていた。
それが樺太で語られた、「清い人間などいない、みな罪悪感など覚えない」という道理。みんな罪悪感を持っていないから自分も感じていない、だから人を殺せる。そして、どんなに清廉な人間でさえ、ひとたび殺しを起こしてしまえば、罪悪感など持たない。清い人間とはおそらく罪悪感、つまり人の心を持ち続ける人間のことでしょう。そんな人なんていないみんな人殺しになれるんだ、というのが尾形の論。
勇作さんは清い人だった。戦場に出ながらも人を殺さない。尾形にそそのかされても捕虜を殺さない。それどころか尾形に、罪悪感のない人間などいないのだから兄様も本当は罪悪感があるのでしょう、といったことを言う。
そう言われて困惑するのは尾形だ。だってこれまで自分を守ってきた道理が思いきり壊されている。自分を否定されたも同義。勇作さんのあの言葉は悲しいかな尾形を受け入れるどころか拒絶する言葉だったわけだ。
そんな複雑な経緯を持つ尾形の心が、アシリパさんに狩猟を褒められたくらいでどうにかなるわけもなく。むしろ勇作さん2号のように見えているのかもしれない。受け入れてくれるようでいて、尾形の人殺しの道理を否定する存在。尾形としては消し去って自分の道理が正しいことを証明したいわけだ。もう否定されたくないのだ。
誰も尾形を肯定してくれない。そして尾形自身も、肯定されることを諦めたかのような皮肉な態度を繰り返し、仲間になった者とも一定の距離を置いているように見える。
杉元の言う「がっかりさせたい」という動機もある意味合っているんだよね。今までがっかりされてきたわけではないけど、関心を持たれなかった。だから、かき回して混乱を引き起こせば、誰かの関心を買える。アシリパさんを撃てば少なくとも杉元の恨みは買えるし、もしかしたら鶴見中尉にも振り向いてもらえるかもしれないから。
一体彼はこの金塊争奪戦を経てどう変わるのだろう……それに何よりも、アシリパさんを撃つのだろうか……。
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