子供叱るな、来た道じゃ 年寄り笑うな、行く道じゃ

こんばんは、うたげです。
前々回に書いたこちらの記事(いつも同じところを回っている)の公開後に、友人の呟きを見ていて、これも書いておかねばなと思ったことがあるので、今回はそのお話です。

 

子供叱るな、来た道じゃ 年寄り笑うな、行く道じゃ

本題に入る前に、ちょっと前置き。
このことわざ(子供叱るな~)、まさしくその通りだなと実感する日々です。
悲しいかな、年を取れば取るほど、本当にこのことわざ通りに人生が進んでいく感覚があるんですよね…

こちらの記事(いつも同じところを回っている)で書いたように、私たちはいつも「来た道」を後悔して叱りそうになります。過去の子どもだった自分がしてきた間違いを、目の前で他人がしているのを見て、止めたくなる気持ちはわかるのですが、自分もしてきたことなので何も言えません。それに、自分も子どもだったことがあるから、何を言われても聞き入れないこともわかっています。

 

行く道も同じ

ここから今日のメインです。
私が若者について感じたこちらの記事は、ことわざで言うなら「来た道」です。「行く道」についても、同じことが言えると思います。

「行く道」にいる人は何もご老人だけではありません。世代が一つ上の方々だってそうです。
二十代は、「三十代はオジサンオバサンで嫌だな、少しでも若くいられるように見た目や流行には気を遣おう」と思っているかもしれません。というか、私がそう思っていました

でも、実際にその年にならないとわからないことだらけですね。人間、年を取れば見た目は老けますし、体力も落ちるし、新しいことについていけなくなります。身体的な成長が止まった日から老化が始まります。下の世代から尊敬や羨望のまなざしで見られることなんてそうそうないです。だって体力はもちろん、センスとか柔軟性とか、若い者には敵わないですから。その分経験を積んでいればいいですが、積んだ経験とそれを伝える手段、両方に優れた人はそう多くないと思います。

以上のはざっくりした例えですが、もっと身に染みた実話もあります。
ジャージと、お化粧
ジャージというより、冬場のいわゆるシャカシャカパンツです。外側が防風仕様で内側がボアの暖かいやつ。あれをはいて外出する人の気持ちがわかってくるようになってしまいました。寒いんだもの…。前は、外に出るのに部屋着みたいな恰好でみっともない、くらいに見ていたのに…。見た目と機能なら機能優先、という話ではなくて、服装に無頓着になってきた感じがあります。
お化粧も、二十代で化粧が楽しかった頃は、オバサンはどうして時代遅れの眉メイクなんだろう、などと失礼なことを心の中で思っていたわけですね。でも今ならわかります…若者に流行っているメイクなんて良いと思えなくてできない…そして何より、普段の眉メイク以外の眉毛を作れない…。前はもっと流行りのメイク方法を試したりしてたのになー?と、自分の老化っぷりにびっくりです。

 

過去と未来の狭間で

ここまで私の老化具合をお話ししてきましたが、過去の自分がああなりたくないと思っていたものになってしまう恐ろしさを、年を取るにつれて実感しています。
十代までは、今の自分で精一杯で先のことなんて私はほとんどまったく考えていなかったので、二十代より先がどうなるかなんて想像すらしていなかったんですよね。でも、二十代になって社会に出ると、自分の所属するコミュニティでの違う世代の人に触れ、その人に将来の自分を少し重ねてみる機会が現れ始めます。そこで「こういう年の取り方はしたくないな」という部分を持った人に出会ったなら、その人を反面教師に学ぶことは、多いと思います。

でも、その人の年齢(あるいは別の条件)に追いついたときに、過去の自分がやりたくないと思った振る舞いをせざるを得ない場面というのが、あります。
そのときに、自分は「行く道」を笑っていたんだなと初めて後悔しますし、同時に、自分の「来た道」を叱りたくもなります
でも、そういうものなんですよね。ここで笑うのをやめても何の役にも立たないですし、叱ったとしても今まさに私が「来た道」を歩いている人にとってはただのお節介なんですよね。こうして人間の行いは繰り返されるんでしょう。

これは、私には人間が受けている罰みたいなものに思えます。自分自身がいくら経験や知識を蓄えて進歩したつもりでいても、命ある限り死んで生まれての循環がそこかしこで繰り返されているわけで、自分が「来た道」と「行く道」をまざまざと見せられ続けている状態です。いくら賢くなったつもりでもお前には何もできないんだ、この循環の中にいて抗えない過去と未来を見ているしかないんだ、と言われているような心持がします。…誰に、何の罪で、なのかはわかりませんが。

 

教訓

「子供叱るな、来た道じゃ 年寄り笑うな、行く道じゃ」
私は、「だから他人には寛容でありましょう」と続ける解釈が一番即効性があると思います。
ことわざ通りに子どもやお年寄りにはもちろん、考えや信条の違う人とも互いに寛容でいたいものです。
また、ああなりたくないなと思った人も、色々な側面があるので、見習うべき部分ももちろんあると思います。そういう色々な側面を見ることも、他人に対して寛容であることの一つかなと思います。一つの側面で決め付けては良いお付き合いはできないですもんね。当たり前のことですが、毎日のこととなると忘れがちです。

…そうは言いつつも、きっと現在進行形で、母親のお小言をうるさいなと感じています。これも、ゆくゆくは、言う側の気持ちがわかり聞き流していた自分を悔いる時が来るのでしょう…。
そうなるであろうことがわかっていても、現在の自分をコントロールできない…。歯がゆいですね。わかってるなら変えろよと自分でも思いますけども。正論であってもすぐ実行できないアドバイスは往々にしてあるんですよね…特に母親からのね…。

 

私は他人に無頓着であれ

最後に。ここまで書いておいて何をいまさら、ということなのですが。
ここまで他人を見て考えているの、我ながら少し気持ち悪いなと思います。
他人への攻撃は自分に自信がないことの表れと聞いたことがあります。
私はオジサンオバサンを見てはああなりたくないと思っていましたが、それは彼らを心の中で攻撃していたようなものなんです。
自分に自信がなかったんでしょうね。今もあるわけではないのでたまに他人に攻撃的になってしまうこともありますが…。
他人を攻撃することで自分を守るんじゃなく、自分の関心はしっかり自分に向けて、他人にはもう少し無頓着でありたい。そのくらいで私は寛容と言えるくらいの態度になれる気がしています。

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