世界は音楽に満ちている。:映画『蜜蜂と遠雷』感想

こんばんは、うたげです。
今日は映画『蜜蜂と遠雷』を見てきた感想です!

 

『蜜蜂と遠雷』感想

まずは映画の感想を。

冒頭、雨粒が地面に当たり弾ける映像。原作読んだからわかる…雨粒が何かを叩く音、これは亜夜が音楽の神様に愛されていてどこにでも音楽はあると全身で感じていることを表しているんだわ…

突如として暗転、無音。
音楽を題材にした映画だから、無音の時間が生きる…これは終盤にも出てきそうな演出だな…
(と思いながら見ていたら終盤でほんとに同じ展開があった)

一次予選に向かう亜夜に容赦なく投げかけられる周囲の言葉。ここで亜夜がどんな人かを説明しているのね。でもこの段階では言葉だけ。亜夜はかつて天才少女だったが今は相当長いブランクがあるということがここでわかるようになっている。

そんな亜夜が一次予選の演奏を始めようとしたところで場面転換。次はもう通過者発表も終わった場面に切り替わってて、かなりサクサク進めてる。一次予選はかなりあっさり終了、まぁたしかに映画的には『春と修羅』の二次予選や、亜夜とマサルに葛藤のある本選に焦点を当てたいよね。原作ではここは各コンテスタントがどういう経歴で、どんな気持ちでコンクールに臨むかを説明しているけど、映画では映像で説明しないといけないものね。
でも一次予選の結果発表後の場面で、プレスの人たちの会話を通してマサルやジェニファ・チャン、明石の紹介をするのはスムーズでわかりやすかったと思う。女の子にサインをねだられるマサル、そこに割り込み調律師への不満を漏らすジェニファ・チャン(その不満はファンサより優先度高いの?)。二人のキャラクターわかりやすくていいね。そして撮影のためコンクールに来ている雅美ことブルゾンちえみが追う明石。
え、ブルゾンちえみ?雅美の役なの?出るのは知ってたけどまさか雅美とは。この役どころだと明石と一緒に出て明石に解説を促す役回り…?てことはかなり後半まで出てくる…?チョイ役と思ってたのにけっこう出そうだよブルゾンちえみ!

三枝子登場!斉藤由貴!!原作読んだときは勝手にややふっくらしたきつそうな性格の見た目を想像してたんだけど、この三枝子は明らかに魔性の女。色気がすごい。流し目されたら男だったら何でもしてしまいそう。ナサニエルが入れあげるのもわかる…わかるよナサニエル…。この三枝子はかなりの男を惑わしてきたと思うね。映画ではナサニエルと昔は夫婦だったことなんて微塵も出てこないし、なんならマーくんの恋愛模様も一切出てこないけどね。たしかにナサニエルと三枝子、亜夜とマサルの恋愛を絡めると全然別方向の話になっちゃいそう。ピアノコンクールはただの再会の場になっちゃうもんね。現実と同じく真剣勝負の場に恋愛感情は邪魔なのよね、きっと。

序盤は明石にもやや焦点が当たる。出場制限ぎりぎりの年齢、音大生ではなくサラリーマン、家に帰ればパパという明らかに周囲から浮いた属性の明石。取材のためブルゾンちえみがインタビューすると、「生活者のための音楽」は負けないことを証明したいのだ、と語る。
実は明石は岩手に住んでいる設定になっている。岩手といえばご存知、宮沢賢治。『春と修羅』の著者。つまりは映画では明石は、本当に普段の生活の中で得たものを『春と修羅』のカデンツァにこめた、ということになる。これはなかなかよい。原作では、新曲の解釈に四苦八苦する描写として、岩手への弾丸旅行をしたことや賢治の著作を読み漁ったことが描かれていたけれど、映画の明石は賢治が吸っていた土地の空気を吸って生活している。だからその明石が、普段の空気をカデンツァに落とし込めばそれこそが「生活者の音楽」だ、というメッセージがかなりわかりやすく発信されていて。だからこそ、その『春と修羅』で選考された二次予選で明石が落ちてしまったこと、それはインタビューでも明石が言っていたように「生活者の音楽」の敗北だ、ということになるのかな。
でも、終盤で亜夜に言ってたように、世界中に様々な音楽があるので、例えコンクールでは負けてしまっても「生活者の音楽」は続けていいし、続くべきなんだよ、明石!そのメッセージが明石の口から語られたのはアツい展開だった。

さて、明石の二次予選の結果発表の前に、亜夜にもスポットライトが当たる。
一次予選の時点では亜夜はかつての輝きを失っているという三枝子の談。でもそこに現れる風間塵!
亜夜の前の出番の彼が舞台裏に戻ってきたとき、足元がモカシンと舞台にはあり得ない服装であることにびっくりした亜夜が顔を上げて目を合わせたのが二人の出会い。
その後、二次予選の明石の「あめゆじゅ~」を聴いてどうしてもピアノが弾きたくなった亜夜。ここ、原作ではマサルのカデンツァに触発されるのだけど、映画ではそれが明石のカデンツァになっているの、とてもいい。明石と亜夜の出会いをよりクッキリさせていると思うし、明石の演奏に刺激される描写があることでその後の亜夜の号泣場面にも説得力が出てくるね。ピアノを弾きたいのに練習室が使えない亜夜に、明石が知り合いを紹介。何らかの工房を持っていて何らかを作っている明石の知り合い。何者?何作ってるの?この明石の知り合いについては特に言及なし。原作では、亜夜の付き添いで来た奏(亜夜の指導教授の娘)の知っているピアノ教師の家、という設定だったけど、ピアノと無縁そうな工房だし何かの職人だしで、彼が気になりすぎた…。あと工房の彼は何かをガンガン叩いて何かを作っていたけどもピアノ練習の妨げにならないのかな。そんなに物理的な距離があるのかしら。
とか思ったけど、そこに突如として現れる風間塵に何らかの工房の人への色んな疑問は吹っ飛んだ。風間塵は亜夜がピアノを弾きに行くんだろうと思ってあとを尾行してきた。なんて危ない。危なさすぎる。ストーカーじゃん!原作でも亜夜のあとを付けてきてたけど、実際に映像にするとヤバさがすごい。16歳の男の子って子どもとはいえけっこうでかいよね!夜、女の子一人のところに窓を叩かれたら、驚くなんてもんじゃない。
…けどそこは風間塵なので。ギフトなので。亜夜と月明かりのもと、連弾。ここの演奏とってもよかったな。月の光からどんどん曲が移り変わっていく。編曲も素晴らしいし、そのいかにもその場の流れで曲が移り変わっていますよ、という空気を醸し出せる俳優陣もすごい。ここの演出は大変だったろうなと思う。最後の締めも息ぴったりで、近年の映画の中ではかなりいい演奏シーンだった。

でも、二人でピアノを弾く前後の会話は、亜夜がぎこちないのがまたいい。初めは風間塵が突然現れたことに対する驚きや警戒心もあったと思うけど、それでも人と距離を置いている感じ。
この映画の中の亜夜は、基本的に感情をあまり外に出さない。無難にやり過ごすための薄っぺらい笑顔が張り付いてしまっているような感じ。マーくんと再会したときだって、破顔という表現で笑いこそすれ、すぐにいつもの張り付けたような笑顔に戻ってしまう。だって小さい頃の約束を守ってピアノをずっと続けてきて、ピアノが大好きだと臆面もなく言えるマサルに対し、亜夜は七年間もピアノから離れ、ピアノが本当に好きなのか自信がない。昔は自分のあとをついてくるばかりだった小さなお友達がいつの間にか自分よりずっと先を堂々と歩いているって、亜夜にとっては自分のこれまでの道のりがどういうものだったか問い詰められているような感覚だったんじゃないかな。居心地悪くて、逃げ出したかったに違いない。
それでも二次予選を突破できたのはやっぱり風間塵のおかげ。彼との連弾がなかったら。彼が二次予選の舞台袖に戻ってきたとき上気した顔で亜夜に「楽しかったよ」と声をかけなかったら。

映画では風間塵は本当に「ギフト」役に徹底していて、人間らしい描写が少ない。音の出ない鍵盤で練習して指先に血が滲んだりする場面はあるけど、それも痛みすら気にしない程に音楽に入り込んでいる、みたいに見えなくもない。音楽の神様の使い、みたいな感じ。
彼は音楽を連れ出すことを目的にしているけど、映画ではそれは具体的に亜夜の復活を指しているんだと思う。亜夜はかつて母親と世界が音楽で満ちていることを感じた。最後、亜夜はその感覚を取り戻し、再びステージに立つ。本選の前に、亜夜とマサルの会話で、マサルの夢がコンポーザーピアニストだということも明かされる。「音楽が閉じ込められている枠を壊したい」という主旨の夢。きっとそれは風間塵の目指す、音楽を連れ出すこと、世界は音楽に満ちていると再発見することと同じことだと思う。こんな感じでテーマはけっこうわかりやすく散りばめられてる。
ちなみに亜夜が二次予選突破できたのは、風間塵が、作られた曲をホールで演奏するだけでなく世界中に音楽があるんだよってことを亜夜に教えてくれたおかげだと思う。月の光を見てドビュッシーの『月の光』を弾き始めるっていう、音楽は本来周囲にあるんだよ、ってメッセージがなかったら、亜夜は母親との連弾を思い出さなかったんじゃないかな。母親と連弾して、「あなたが世界を鳴らすのよ」って言葉を思い出したから、母親のようにすべてを包み込むカデンツァが出てきたんだと私は思う。

亜夜の本選は、もうほんとに涙なしでは見られなかった。。映像になると、幼い亜夜の心の空洞がよりリアルになってしまって、本当にダメ…あれは泣かないでいられない…。
亜夜の天才ピアノ少女時代の終わりは、こう。舞台袖に一人座る亜夜。その周囲で母の葬儀に間に合うかという心配をする大人、まだ子どもだぞと亜夜をかばう大人。亜夜本人の意思を無視して周りの大人だけで話を進めようとする、亜夜にとっては居心地の悪い空間。そんな中、いつも通り「時間です」と田久保に声をかけられステージ上のピアノへ歩いていくが…。ステージに出るもそこにいつもの音楽はなくて、ただ暗くて息苦しい黒い箱があるだけ。幼い亜夜の指はずっと膝の上にある。指揮者がいくら合図を出してもピアノの音は鳴らない。オケ奏者が怪訝そうな目、いや、ほとんど睨んでくる。そんなところから亜夜は立ち上がって逃げ出したんだ。
そのとき弾こうとしていたプロコフィエフ三番。でもあのときのことを思い出して、亜夜はリハで一度はピアノを弾くものの、ピアノをまったく響かせられない。指揮者小野寺にも、ピアノが鳴らなくなったのかとと言われ(予告編で使われてるシーン)、ついにはオケがリハを進める中で亜夜の指はまた膝の上に戻ってしまうし、さらには荷物をまとめて出場前にコンクール会場を立ち去ろうとさえする…。

でもね、ここで場面転換。地下の駐車場になぜか置かれているピアノ。雨も降る中当然そんなところにピアノは置かないから、きっとこれは暗喩。冒頭で示されたように、亜夜が世界から音楽を見つける例として使われるのは、雨音なんだよね。だから雨音を聞いて、そこに音楽があると気付くシーン。母親との回想でも雨の音を聞いてそれを音楽にして…という印象的なシーンがあるので、雨音を物語のキーにして見るとだいぶわかりやすい。
本選本番では、幼い頃の回想やリハでの様子がいいバネになっていて、それら陰鬱とした出来事を乗り越える亜夜の演奏の様子は、見ていて涙があふれた。風間塵は音楽を連れ出してくれる人を見つけた!

私は、亜夜や風間塵は、まるでシャーマンや翻訳者のようだなと思った。原作でも小野寺が言っていることだけれど。(小野寺は原作と一番違うキャラクターでちょっとびっくりだよね…)
世界中に満ちている音楽を、代弁する存在。それが亜夜たち音楽家なんじゃないかな。世界にある音楽を取り出して、解釈し、自分の言葉で語る。同じ雨だれを聞いても、亜夜と風間塵の奏でる音楽は違うし、たぶん誰一人として他の人と同じ音楽を語ることはない。それどころか一人の人間でも、昨日と今日では同じ音を聞いてもまったく違う音楽を奏でるだろう。小野寺がホフマン追悼コンサートで語ったように、音楽は泡沫の芸術。耳に届いてもそれをずっと閉じ込めておくことはできない。でも一瞬の煌めきだからこそ、永遠だ。

亜夜は本選の演奏後、舞台から世界に音楽が満ちているのを見て、それで涙したのではないかな。かつて母親と見て聴いていた世界が、あのときよりも広くなっている。昔はよく遊んでいたのにいなくなってしまった友達に再会できた喜び。もちろん演奏を終えた安堵感などもあると思うけれど、それよりも、音楽が満ちる世界をまた見つけられたからこその涙だと思う。

 

原作小説との違い

たくさんあったので抜けてるのもありそうですが、ひとまず覚えているものから。

  • 奏・オリガのキャラクターは登場なし。それぞれの役割は、
    オリガ=審査委員長 → 三枝子が審査委員長に
    奏 → たぶん明石に集約
  • 亜夜とマサルの先生が、綿貫先生→亜夜の母親に。
  • 亜夜の出番が大トリではなく四十四番。(ただこれはあまり影響ない。)
  • 三次予選なし。一次はおそらく原作通り、二次は『春と修羅』一曲、その次が本選。本選の課題は原作通りピアノコンチェルト。
  • 明石の役割が増えている。
    原作:「生活者の音楽」を示す最年長コンテスタント、仕事も家庭もあり読者に最も近い立場
    映画:原作の役割に加え、亜夜に要所要所で言葉を投げかける潤滑剤のような役割も
  • 亜夜と風間塵の連弾が、コンクール開始前→一次予選後、音大の教室→明石の知り合いの工房、にタイミングも場所も変更。
  • 本選の指揮者小野寺のキャラクターがかなりの曲者に変更。マサルの前には壁となって立ちはばかり、亜夜にとってはボイコットしたあの演奏会を思い出させるという悪役的な立ち位置に。
    他、ホフマン先生追悼演奏で、音楽とはどういうものか、彼の口から語れる。「一瞬を通じて永遠に触れている」

 

世界は音楽に満ちている

「世界は音楽に満ちている」というメッセージに重きを置いた作りだったと思います。そのために各キャラクターの役回りを大胆に改変したところもありましたが、映画の二時間に物語を収めるのならば改変は必須ですよね。それでも、コンテスタントたちの心の動きが丁寧に描かれていて、原作未読でも感動を覚える作品に仕上がっていると思います。特に亜夜は作品の要なので、原作のあの飄々とした感じがなくなり、音楽との向き合い方にもがき苦しむ役どころへ変更。一度沈んでから最後の演奏までを見せているので、彼女の成長あるいは復活物語のようです。亜夜の物語とオーバーラッピングしてくるのが明石。前半は明石の物語でもあって、彼の演奏が亜夜を刺激して亜夜の成長へうまく繋げていく構成は、わかりやすくてよかったです。原作だと各人の物語が同時並行で進んでいくので、浮き沈みがあって物語として作りやすい二人を抜き出して、映画の枠にはめるため周りに必要最低限の飾りだけ付け足した、という感じかな。役割を集約させて登場人数を削ったことで、全ての登場人物がきちんと機能していたのは関心しました。

とにもかくにもなかなか自然で納得のできる映像化でした!
原作を読んだ方にはなかなか楽しめる作品だと思います。音楽はもちろん、映像もきれいです!あまり声を荒げたりするシーンもないので疲れたとき見るのもいいんじゃないかな。私はそういう風に見たいと感じました。
でもやっぱり一番のおすすめは原作を読んでから見ることですね。逆でもいいと思いますが、原作も素晴らしいですよ。

「世界は音楽に満ちている。:映画『蜜蜂と遠雷』感想」への1件のフィードバック

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